このホームページを作るに至るまで 中井好男
このホームページを作るに至るまで
20年という節目
このホームページは2020年4月にスタートすることとなりました。私が日本語養成講座に通い始めたのが2020年から数えてちょうど20年前のことで、私にとっては一つの節目であるのかもしれません。ということで、私が日本語教育に関わってきた20年をざっくり振り返ってみます。少々お付き合いください。
日本語教師という存在との出会い
大学の専門は日本語教育とは全く関係がありませんでした。もともと犬好きだったのですが、獣医さんになれる頭はなかったため畜産について学ぶ大学に入りました。大学卒業後は当時自分が置かれていた環境を変えるために、憧れだった英語圏の一つであるオーストラリアにワーキングホリデーに行きました。様々な背景を持つ人々が暮らす国での生活では、嫌なこともいいこともいろいろな経験をしました。日本に帰国してからは仕事を探す日々でしたが、日本での仕事に魅力を感じることがなかったこと、そして、やはりオーストラリアでいい経験をたくさんしたこともあってか、再び海外に行きたいと思うようになりました。またすぐにワーキングホリデーに行くか、海外で活かせる資格を取ってから行くか考えていたころ、アルバイト先で知り合った、シスターになろうとしてる女性が、私に海外生活の経験があるということで、インドネシア人の神父さんに会いに行こうと誘ってくださいました。そのとき、その神父さんが通っていたという大阪のとある日本語学校に連れて行ってもらいました。それが、私が日本語教師という存在を知ったきっかけです。「どうやったらここで働けるんですか。」突然の私の質問に事務所の方がくださった答えの一つが日本語教師養成講座に通うということでした。
日本語学校でのハネムーン期
日本語教師養成講座を終え、日本語教育能力検定にも無事に合格することができた私は、日本語学校で教える機会をいただきました。まともに授業もできない駆け出しの私が運よくその機会を手にできたのは、その学校では数少ない「男性」だったからではないかと思っています。いずれにしても、それほど年の違わない学生さんもいる中で、できるだけ近い距離で日本語の勉強を手伝いたい、そんな思いでいろいろな学生さんと楽しい日々を過ごしていました。といっても、警察にお世話になる学生さん、いなくなってしまう学生さんなど、いろいろ揉め事もあっていつも楽しかったわけではありません。が、海外から日本に来た人たちと向き合うことが自分の時間のほとんどを占めているということに、とても幸せを感じていました。海外に再び出ようと思っていた私にとってはこの環境が非常に居心地がよかったからだと思います。
風景の広がりとともに芽生える自分への不安
4年を過ぎ、教えるということに少し慣れてきたころ、ふと自分のことを考えるようになりました。もっと上を目指したいけれど、日本語教育は私の専門でもなく知識も中途半端でなかなか難しい。本を読んだり研修会に参加したりはしたけれど、周りの先生は知識も経験も豊富で太刀打ちできない。このままだと自分の将来はどうなるのか。大学時代の同級生がどんどん出世していくのを見ていると、何の取柄もない自分に不安を覚えるようになりました。そこで考えたのが大学院進学でした。
足元にある問題の再発見
大学院で様々な人に出会い様々なことを学ぶ中で、自分が何をすればいいのかが見えるようになりました。そのきっかけを与えてくれたのが学習者論であり質的研究でした。文法、発音、教材、教授法といった言語に関する知識や教える技術も大事なのかもしれないけれど、やはり何よりもまず日本語を学ぶ人のことを考えなくてはいけないということを改めて思い知ったのです。それは、当時、私がちょうど「再履修」している学生さんにどう向き合えばいいのか頭を悩ませていたからです。やる気もない、話も聞いてくれないなど、いろいろ「こじらせさせて」しまった学生さんとともにする時間は非常に重いものでした。しかし、そんな彼らと向き合い、少しでも改善する道を模索することを可能にしたのが学習者論であり質的研究でした。
日本語教師としての私と日本語との関わり
大学院で研究として取り組んだのは再履修をしている学習者の問題でした。そしてその問題を質的研究の枠組みで捉えることにしました。質的研究にもいろいろありますが、私が取り組んだものは自分と向き合うことを余儀なくされるものばかりでした。学習者のことや彼らに関わる教師のことを理解しようとするとき、自分だったらどう感じるだろうと考えるのは当然起こることなので、質的研究だからという特別なことではないのかもしれません。しかし、相手の経験や世界を知ろうとすればするほど、自分の経験や世界を知ることが必要となりました。その問いは、なぜ私は日本語教師をしていてどういう教師を目指しているのかというというものでした。当時の私は、外国人との交流が好きだし海外での経験があるからこそ学生さんに近い「お兄さん」的な立場で日本語学習を支援することができるんだ、そのように自分自身を理解していました。
私と日本語との関わり
しかし、そうではなかったようです。ニュージーランドにある英語学校の視察に行ったときに、2度目の転機が訪れました。そこで視覚と聴覚に頼らないコミュニケーションを取る、いわゆる障がいを持つ外国人が他の留学生を一緒に英語を学んでいたのを目の当たりにしたからです。その光景は、私が今まで見ないふりをしてきた自身の家庭環境へと目を向けさせました。「障がい者」として生きていたろう者である両親にそんな機会があったのだろうか、住む場所住む時代によってこれほどまでに人生が変わるのだろうかと愕然としたのを覚えています。気づくのが遅いと言うべきところですが、その後はその視点からしか自身と日本語との関わりを見ることができなくなってしまいました。つまり私が日本語教師を続けている原点がそこにあるということです。ニュージーランドでの経験以降、「手話」「ろう者」といったタイトルの本が目に飛び込むようになりました。そして、自分と同じような環境にいる人との出会いにも恵まれ、様々な経験を聞かせていただくこともできました。出会うことができた本や多くの人々から聞かせていただいたお話から自分自身に向き合う力をもらってきました。そして、それがこのホームページを始める力にもなっています。
このホームページを通して
神父さんを紹介してくださったシスター、日本語学校に連れて行ってくださった神父さん、突然の私のまぬけな質問にご丁寧に答えてくださった日本語学校の事務の方、学校が嫌になってしまった留学生、物の捉え方を変えてくださった大学院の先生、ニュージーランドで出会った重複障がいを持つ留学生、活躍するろう者や私と同じような環境にある人々。この20年の間に、出会いをもたらしてくださった方やいろんなことを教えてくださった方がたくさんいます。そこから私が力を得てきたように、このホームページも日本社会を生きる人々にとって、様々な経験と出会う場となり、日本社会を生きる力を少しでも得られる場となることを願っています。