日本社会を生きる人々との対話へ
金志唯さんー社会制度によって作られ、排除される自分を乗り越えるために
金志唯さん-社会制度によって作られ、排除される自分を乗り越えるために
-私の両親は韓国人です。両親は私が生まれる前から日本に来ましたが、それ以来日本で生活しています。母が韓国の実家で里帰り出産をしたので私の出生地は韓国ですが、すぐに日本に来て、それからずっと日本で育ちました。気が付けば日本語は自然と身に付いていて、特に困った覚えはありません。
金さんは韓国にルーツを持っています。でも、それは韓国語の能力に関係はありません。
-どちらかといえば言語で大変だったのは韓国語の方でした。私の両親は日本語が堪能で、家庭では日本語を主に使っていたので家族との会話は問題ありませんでした。ただ、私は韓国語があまり得意ではないので、韓国の祖父母や親戚との会話には苦労しました。また、日本でも「韓国語できるの?」「何か話してみて」「韓国語教えて」などと言われることが度々あったのですが、実は普段あまり韓国語を使わない私には少々負担で、次第に「韓国人なのに韓国語ができない」と韓国語への苦手意識が強くなっていきました。大学生になる頃には、自己紹介の際に「キムです。韓国人ですが、韓国語はできません」と自分から笑い話にするようになりました。先手を打ってしまえば、「韓国語できるんでしょ」と聞かれることも減って楽だからです。
自分のルーツのことで差別されることも嫌に思うこともありませんでした。
-韓国語に関しては昔からコンプレックスがありましたが、それ以外では自分が外国人だからと嫌な思いをしたり、自分のルーツを気にしたりすることはあまりなかったと思います。留学生の家族など地域に外国の人たちが何人かいたのもあって、理解のある地域だったのだと思います。両親が韓国人で、家では日本語にまじって韓国語が使われたり、日本の料理と韓国の料理が一緒に食卓に並んだり、たまに韓国のおじいちゃんおばあちゃんに会いに行ったり、そうした生活は私にとってそんなに特別なことではなく「ふつう」のことでした。友達が日本人で、私は韓国人であることをもちろん理解はしていましたが、だからといって何も変わらない、同じだと思って気にしていなかったです。
それでも日本では制度によって排除されてしまいます。
-でも、高校生になって将来したい仕事を考えたときに、はじめて自分が外国人であることの壁にぶつかりました。日本では外国籍だと国家公務員などいくつかの職種に就けなかったり、一定以上の階級への出世ができなかったりするそうです。それを知ったとき、はじめて「自分は外国人なんだ」と実感しました。
社会制度による排除を乗り越えるために自分を変えることにしました。
-私は教育学部に進学したのですが、外国籍でも教員にはなれるものの管理職などにはなれないとのことだったので、就職する前に日本国籍に帰化しようと決めていました。「管理職になりたい!出世したい!」というよりは、みんなと同じようにこれまで日本で生活してきて、同じように勉強しても、同じ条件で働けないということがいやだったからです。
制度上のラベルが作る多様性を持つ当事者になりました。
-だけど20歳の頃いざ帰化しようとすると、本当に韓国国籍から日本国籍に変えてしまってよいのか、後悔しないか、とても悩みました。自分は果たして韓国人か日本人か分からなくなって、一度は帰化を申請するのをやめてしまいました。その後、韓国に短期留学してみたり大学院に進学して外国にもルーツをもつ子どもに関する研究に取り組んだりする中で帰化することを決め、無事申請が通り日本国籍になりました。父も帰化をしたので、今では父は日本人、母は韓国人です。それだけ聞くと私はハーフ、ダブルのようにもみえるかもしれません。それを思うと、国籍というラベルは何とも不思議でおかしなものだなあ、とも感じます。
自分と向き合い、悩むことは誰にでもあります。
-自分は韓国人か日本人か、帰化するべきかするべきではないのか、ひとりでぐるぐると悩んでいる間、私は自分がひとりぼっちのような気持ちになりました。韓国で育った韓国人である両親ともちがうし、日本人の友達ともちがう。自分だけがこんなことに悩んでいるのかもしれない、と思いました。でも同じように外国にもルーツをもって同じような気持ちになったという人たちに出会って、これは私だけじゃなかったんだとホッとしました。
これからは自分の経験を次の世代の子どもたちのために活かしていきたいです。
-もちろん似たルーツをもっていても人はそれぞれですから、全くちがう経験をしてきた人もいるはずです。それでも、たしかに私と同じような問題に直面し、それを乗り越えてきた人たちとの出会いは私にとって大きな励みになりました。だから今、今度は私が「私はここにいるよ」と伝えたいです。こんな人がいてこんなことを思っていることを、似た境遇の人やその周りの人たちに知ってもらえたらと思います。複数の国にまたがって育つ子どもたちがありのままの自分で生き生きと暮らすことを願って、私はこれからも教育に携わっていきたいなと思っています。
(終わり)