日本社会を生きる人々との対話へ
王さん―今の私を作った日本で第二の人生を始める。
王さん-今の私を作った日本で第二の人生を始める。
−留学というのは将来を明るくするものやろ。将来のためやん。
王さんは 2001 年に中国からました。当時は、周りの友達も留学を目指していた時代でした。
−中国は学歴社会が進んでたから、中国で大学行くのも大変やったけど、留学したほうがもっとレベルが高いし、だから、留学するからには大学院まで進もうって、どうせやったらいい会社に入ろうって思ってた。とりあえず留学して経済とか勉強して社長になるとか,なんか経済はこれからやったから経済を勉強したらいいわって留学してがんばったらいいやろうなと。
中国で3か月日本語を集中的に勉強した後、日本の日本語学校に入学しました。
−日本語学校ではいい学生だったよ。あんまり勉強しなくても適当にできた。奨学金ももらってた。もっといい成績の人もいたけど。みんな私のことが好きだったから。はは。勉強はまあまあ、面白くないわな。先生は面白い先生もいたけど。だんだんめんどくさいことも増えるし、そもそも勉強好きじゃないよ。
勉強は勉強。日本語学校は子どものころ通っていた学校と何も変わりませんでした。
−日本語の勉強は座って聞いているだけで、子どもの時からしてた学校の勉強と同じやで。 あの、数学とか歴史とか。なんていうか、知識をもらうためのただ勉強やん。初級の時までは、あ~そういう言葉かって知らないことやから一気に知識が増えるけど。
日本に来た最初の頃は、家族とかいつもの友達がいないだけでした。
−でも、普段は学校終わったら家に帰って中国人のルームメートとか一人で晩ご飯簡単に食べて、お金もないから、出かけたりもしないし。生活はさみしいけど中国人と住んでて、ただ中国の知らん町にいるみたいな。
長期の休みの一時帰国はすごく楽しみにしていました。
−両親とかお兄さんにも会いたいし、いろいろ家のご飯も食べたいやん。でも、家に帰ったら、なんかあんまり家にいてなかったかも。なんか家族に会いたかったんやけど,友達に誘われたら,なんかずっと外に飲みに行ったり。久しぶりやし,懐かしいし。みんなも会いたがるから,うれしいというか。でも,今考えたらほんまに後悔してる。家族も私に会いたかったはずやのに,もっと家にいたほうがよかったのに。
外の世界が広がってきてから、日本にいて日本語を勉強しているということを実感し始めました。
−中級レベルになって授業の時間が午前になったから、午後アルバイトとか始めて、なんとなくミナミにうろうろしたり、中国の友達も大阪に同じ時期ぐらいに来てたから、遊びに行ったりするようになって、なんか日本語の社会で日本語の生活をしているみたいになって。それから学校の勉強は、う~ん、もっと自分と関係なくなった感じ。大学に行くためのものという感じ。特に中級とか上級になると普段使わない言葉が多くなってたし。生活が、 今思うのは、日本語の勉強はやっぱり外で使って生活しながらすることかな。
成績もよかったのでそこそこいい大学に入れました。
−日本語学校は最後一番いいクラスに入ったし、東西大(仮名)に行ったけど、ほんまは西都大(仮名)も受けてたら行けてたかも。でもま、東西大入ってよかったよ。便利なとこにあるからバイトもしやすかったし。将来ビジネスをしたいから勉強になる授業もあるから面白かった。だからけっこうまじめに授業を聞いていた。
中国人の友達はたくさんいましたが、日本人の友達は友達と呼べるものなのかわかりませんでした。
−大学生活はまあまあよかったかな。バイトして授業行って、けっこう今考えたらお金なかったけど、それなりに。中国人の友達はいっぱいいたけど、日本人の友達はいたというかなんというか。
なかなかつながりにくい日本人学生との仲を深めたことばがありました。
−ちょっといじられる時に、そんなことないよとか、違うとかゆうてたけど、やっぱり「なんでやねん」って言うたら、 ぱっとつながったみたいな感じがして、その人たちの感覚も変わった気がした。最初っていうか初めてそれを言ったときに、みんながすごい笑ったのを覚えてて、なんかすっきりしたような。みんなよく冗談を言う人たちで「なんでやねん」ってしょっちゅう言うてた。だから、それからほんまにみんなと近くなった感じもしたし、みんなもっといろいろ言うてきたりするようになった。
地元の人と話すにはやっぱり地元のことばがいい。
−「なんでやねん」って返したら、自分も「違うわ!」っていう感情が入りやすいし、大阪弁面白いなって思うこともあったし。面白い話に参加するのが増えたような気がする。やっぱり地元の人には大阪弁がないと気持ちが通じないと思うし。
振り返ってみると、外国人っていろいろ気にかけてもらえるのは初めだけ。
−大学の時やったら、とりあえず留学生やったら絶対自分のこと聞かれるからそれは嫌というほど慣れてるけど、それ以外、何の話題話したらいいかわからんから、みんな何を話 すのか聞いて、それでよく言う話題とか言葉を使うようにしてたっていう感じ。外国人て、最初はいろいろ聞かれたりするけど、そのうち誰も聞かなくなって、珍しくも ないから、だから共通の話題とかを探して話さないと。それもグループで内容も話し方も違 うから、無意識で気を付けるようになった。なんか、仲良くなる、スムーズに、油?みたい な。大学生の時は他の人みたいに大学生になりたかったし、今は仕事してるからビジネスマンとして認められるというか。そのために必要なことをやるしかないね、文句言わんと。
日本語で困ることはなかったけど、唯一電話だけは苦手でした。
−電話で問い合わせるのがすごい嫌というかうまくでけへんかった。なんか電話やったら、外国人ってわかったらなめられるから。直接会って問い合わせるのは、なんというか資料があったり、その人見て話せるからいいけど、電話は苦手やった。
よくしてもらっている日本人のお兄さんに助けてもらってました。
−問い合わせしないとあかんときはお兄さんにお願いしてた。で、いつか、そのお兄さんに「日本語がそんなにできるのになんで?」と言われて、「自分でやってみたらええやん」って言われてから、でも、最初はやっぱり頼んで、お兄さんの問い合わせ時の言い方を聞いて覚えるようにしてた。あるときに、「今から自分でやって」言わ れたから、横で聞いてもらいながら自分で電話かけたことがあって。何回もそんなんしてるうちに、だんだん自分でできるようになった。電話終わって、どうやった?こういう説明したつもりやったけどとか、途中で困ったら、説明しながらお兄さんの顔見て、日本語いけてるか確認したり。
今では外国人という弱さを力に変えることができるようになりました。
−でも、今は普通にできるし、めちゃうまくなったと思うで。ずるいというか。ははは。今は、外国人やからそんなん知らんしとか言うて、一番ひどいときは日本語知らんふりしたりして、うまく外国人を利用して話すようになったわ。だから、最近そのお兄さんの交渉が下手やから代わりにしてあげることもあるよ。ははは。今は怖くないわ。
今でもある「日本語うまいな」はまだまだ認められていないということ。
−日本語うまいなって言われたら、あ~まだそんなか。もう日本語で生活してるのに、まだ社会に入れないかって。もう今は勉強は終わってて、日本の社会で生活してる。うまいってことは、まだ何と言うか、日本の社会の外の人の感じ。
だから認められることを求めるより日本でできることを増やすことが大切です。
−やけど、急に変わらないよ。日本語で何かしてそれができて、が んばってそれがいっぱいできるようになって、だんだん社会に入っていって、今の私やから。日本語学校の時はまだ日本の社会にいる感じは薄いというの?そんなやったけど、アルバイトしたり大学に行ってからは日本の社会で生活してそこで日本語を使いながら学んでるっていうのか、前もゆうたけど、やりたいことができるようになることが大事かな。
大学院を修了し日本の大手企業に入るときに、住み慣れた大阪を離れました。
−大学院出て、大手の会社に入って、大阪を離れたけど、将来のためやから仕方ないなと思ってて。でも何というか、だんだんしんどくなってきて。なんか向こうの人も合わないし。人が冷たいというか、親切じゃない。自分のことだけ考えてる感じ。大阪は人がほんまにやさしいわ。温かい感じがする。
自分のためと思って就職しましたが、自分のためだけでは納得できなくなりました。
−大阪にいる間そのお兄さんと家族には色々お世話になってて,出発する日の朝、送り出してくれた場面、まだ覚えてる。で、大阪を離れている間ずっと,お兄さんところがなんか色々大変みたいやったから、気になってた。なんかできることがあったら,手伝いたいって。で、両親とスカイプしてても,お母さんが私がなんか元気ないのがわかったみたいで,いつもどうしたんとか,嫌やったらやめたらいいとか,やめて大阪に戻ってって言われて。友達にもそんなにしんどいやったら、大阪帰ってきて仕事探したらええやんって言われたから、そうかなって思うようになった。
中国の幼馴染と比べると自分は一体何をしているのかって悩むことが多くなりました。
−みんな自分の仕事をしてて、社長。家もいい車も持ってるし、すごいよ。会ったときは、めちゃ高いレストランとかでおごってくれる。結婚してる人もいるし、ほんまにすごいわ。考えられへんくらいお金持ってるよ。みんな見てたら、ここで何やってんねんやろってすごい思った。
中国人だってことが利用されているだけで、自分のためにはならなかった。
−中国人だから中国出張したり、それはいいところでもあったけど、日本の会社では中国人ってことで利用される、中国系の企業だと向こうのほうが上やから、こっちの支社の人は下に見られて結局搾取。帰国しようかなとも思った。すごい悩んだよ。今ここで何してるんやろう。結婚して家庭も持って、両親を安心させたり世話を見たいのに。帰国するまでにはこっちに遊びに来てもらいたいのに、今の状態やったら無理かもって思った。帰国はいつでもできるし、今さら帰ってどうする、帰ったら何もなくなるって。
自分で仕事をやってみようと思ったけど、やっぱり、ここは外国。すぐに自分の仕事ができる環境ではない。
−一か八か自分の仕事をやってみようかって思ったよ。だから、日本で起業している友人に話を聞いたり,起業セミナーに参加してみたり、いろいろ準備してみたけど、自分で仕事するにはお金の問題もそうやけど,ビザの問題が出てきた。
中国人というのを捨てずにやりたいことをするためにはどういたらいいか。
−帰化したらビザを考えなくてもいいから、帰化しようか考えたけど。日本にいるのは嫌じゃないから。でも、自分は中国人で家族は中国にいるし会うのが不便になる。だから、やっぱり何か起業するには永住を取らないとあかんなと思ってた。
永住権を取って起業したけど、これからどうなるのか不安になりました。
−永住権取って今は自分で仕事してるけど、もう人生の半分ぐらい大阪に住んでることになるわ。もちろん中国も家やけど、なんか日本に来てから家は大阪やと思ってるから。小さいときと日本に来てからと別の感じ。もし帰るんやったら、上海とか北京とかじゃなくて地元に帰りたいし、日本やったら大阪やわ。そのうち日本が長くなったら、もっと変わるかな。
今は結婚し子どもも生まれ、家族ができました。ここが今の私を作った家です。
−もう今は家はここになったわ。自分の人生やし、自分だけじゃなくてもちろん家族のためにも子どものためにも、ずっと世話になってきた大阪の家族のためにも。自分の仕事も始められたし、今の自分ができたのもここ、これからを作るのもここ、だから帰化することにした。『選んだ道を信じて一緒にずっとずっと歩く。』いいことばやろ。居酒屋のトイレに貼ってあってん。
(終わり)