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2020.07.22

留学生活の平凡な出来事 INUさん


留学生活りゅうがくせいかつ平凡へいぼん出来事できごと INUさん

 

日本にほんてからもうすぐ一年いちねんになる。

さくら季節きせつだったのがお正月しょうがつむかえ、りょうから学校がっこうまでのみち桜色さくらからひみどりに、そして黄金色こがねいろから真紅しんくいろえ、またたばかりのころの景色けしきになりつつある。この1年間いちねんかん自分じぶんくにとすごくちが生活せいかつおくってきた。学校がっこう授業じゅぎょうにせよ、クラスメイトとのかたにせよ、学生生活がくせいせいかつにせよ、平凡へいぼん日々ひびさえも、台湾たいわんにいるときほとんちがう。本当ほんとうに、ゆめみたいな時間じかんだった。わたしかたすこえ、いままでの、そしてこれか人生じんせいでとても大切たいせつ時期じきえるだろう。

1年いちねんはあっというぎていく。

この留学生活りゅうがくせいかつ記憶きおくの中によりふかきざむため、感想かんそうき、それをテーマごとに分類ぶんるいしてみた。そのなか一番いちばんった3つみっつ記憶きおくをここで紹介しょうかいしたい。

 


日本語にほんご上手じょうずですね!」―日本語能力にほんごのうりょくめられたのかな?

日本にほん以来いらい何度なんど日本人にほんじんに「日本語にほんご上手じょうずですね!」とわれたことがある。そのたび、いつも「そんなことないですよ。全然ぜんぜん上手じょうずではないとおもいます」と返事へんじしていたが、あるとき、ふと疑問ぎもんあたまなかかびがった。

なぜ、日本人にほんじんはよく外国人がいこくじん日本語にほんご能力のうりょくめる言葉ことばくちにするのだろう。

もっと適切てきせつえば、簡単かんたん日常会にちじょうかいわ話さえれてはなすことができれば、はな内容ないよう間違まちがいだらけであっても、「上手じょうず」という評価ひょうかをもらえるのはどうしてだろう。

めてくれたことがある日本人にほんじんといえば、日本語にほんご先生せんせい日本人にほんじん学生がくせいとかバイトの同僚どうりょうとか。

まず、日本語にほんご先生せんせい日本語にほんご教育きょういく専門せんもんであり、日本語にほんご能力のうりょく評価ひょうかする基準きじゅんっている。日本語にほんご日本文化にほんぶんか教育きょういくセンター、りゃくして日文にちぶんセンターの先生せんせいたち、とりわけ上級じょうきゅうクラスの先生せんせいたちは、我々われわれ留学りゅうがくせい文章ぶんしょうやテストなどをきちんとて、また、授業じゅぎょうちゅう日本語にほんご使つかって自分じぶんかんがえをべることができるかしっかりてから、わたしたちの日本語にほんご能力のうりょく称賛しょうさんするのである。つまり、先生せんせいたちは確実かくじつ根拠こんきょまえたうえで、留学生りゅうがくせい日本語にほんごく・く・む・はな能力のうりょく総合的そうごうてき評価ひょうかするため、めてくれたとしてもまだ納得なっとくできる。

では、日本語にほんご教育きょういく先生せんせい以外いがい日本人にほんじんはどうだろうか。

初見しょけんであるにもかかわらず、わずか何秒なんびょう何分間なんぷんかんみじか会話かいわわしただけで、「日本語にほんご上手ですね」と評価ひょうかされることはめずらしくない。しかし、自分じぶん日本語にほんごのレベルはまだ上手じょうずという言葉ことば相応ふさわしくなく、とくはなすことが本当ほんとう下手へただとおもっているので、頻繁ひんぱんにこのようにわれると、相手あいてこころからそうったのかとどうしてもうたがってしまう。

そこで、立場たちば交換こうかんしてかんがえてみた。もし華語かごすこしわかる外国人がいこくじんまえにいて、華語かご自分じぶん簡単かんたん交流こうりゅうをしたら、どうおもうのか。どのような返事へんじをするのか。

自分じぶん場合ばあいは、たしかにすごいとはおもうが、上手じょうずかどうかはやはり発音はつおん流暢りゅうちょうさ、文法ぶんぽう正確せいかく次第しだいである。したがって、評価ひょうかするときに使つか言葉ことばも「上手じょうず」にかぎらず、「いいね」、「うまい」など、いろいろとわる。勿論もちろん本人ほんにんまえでネガティブなことを直接ちょくせつうことはける。それは多分たぶん、「上手じょうず」の判断はんだんする基準きじゅんや「上手じょうず」の定義ていぎひとそれぞれだからだと考えているが、面白おもしろいことは、いままでわたしめられたときにいた言葉ことばのほとんどが「上手じょうず」だということである。

こういう場面ばめん日本人にほんじん外国人がいこくじんった「上手じょうず」というのは、本当ほんとう上手じょうずふくんでいるのか。

私が自分じぶん日本語にほんご上手じょうずではないとおもっているのは、日本語にほんごだれかと交流こうりゅうするときに、よくれなくてもう一度いちどってもらうことやかたがわからなくてまることがしばしばあって、日本語にほんご下手へただとかんじることが何度なんどもあるからである。これは、言語学習者げんごがくしゅうしゃという立場たちば自分じぶん言語げんご能力のうりょく自分じぶん実際じっさい表現ひょうげん評価ひょうかするということである。それにたいして、ほめてくれる日本人にほんじんたちは、日本人にほんじん立場たちばで知ったばかりの外国人がいこくじん評価ひょうかするということである。つまり、立場たちば評価ひょうかする基準きじゅんもだいぶことなるとえるだろう。

また、評価ひょうかする「目的もくてき」もちがうとかんがえる。自分じぶん評価ひょうかしたのは、言語げんご能力のうりょく向上こうじょうさせるためや、自分じぶんのレベルを確認かくにんするためだとおもうが、先生以外せんせいいがい日本人にほんじんはそうではないだろう。だとしたら、日本人にほんじんが「日本語にほんご上手じょうずですね」を自然しぜん外国人がいこくじんう「目的もくてき」はなんなのだろうか。

私のかんがえでは、もしかすると、「相手あいてへのおもいやり」ではないかとおもっている。

日本人にほんじんはコミュニケーションのときに「相槌あいづち」を大事だいじにするうえ相手あいて気持きもちに気配きくばりしたりもする。ようするに、相手あいて気持きもちをわるくさせないことが大切たいせつなのである。そのため、上手じょうずだとほめることも一種いっしゅおもいやり―「上手じょうず」の基準きじゅんひくくし、相手あいてめることをつうじて会話かいわ円滑えんかつすすめる―とえるかもしれない。(が、たぶん意識いしきしてそうするわけでもないとおもう)

もちろん、日本人にほんじんの「上手じょうず」をただの手段しゅだんとしてとらえているわけではない。なんせ、「上手じょうず」だとわれることが成立せいりつする前提ぜんていには「簡単かんたん会話かいわができる」という事実じじつがあるからである。

日本人にほんじん上手じょうずだとめられるとき、自分じぶん日本語にほんご日本人にほんじんみとめられたとかれることはないが、どうしても気持きもちも雰囲気ふんいきわるくならないのはたしかである。そうかんがえると、日本人にほんじん相槌あいづちかたには感心かんしんさせられるものがあるとおもった。

 


台湾たいわん経験けいけんしたことのない授業じゅぎょう新聞しんぶんディスカッション―

今月こんげつわたしがいる日本語にほんごクラスの授業じゅぎょうで、新聞しんぶんディスカッションというのをおこなった。新聞しんぶんディスカッションとは、クラス全員ぜんいんがそれぞれになる新聞しんぶん記事きじを選び、一人ひとりずつまえて、やく40分よんじゅっぷん発表はっぴょうをするものである。発表者はっぴょうしゃ新聞しんぶん記事きじ紹介しょうかいをするだけではなく、ディスカッションの司会しかいもしなければならない。そして、このディスカッションでは、わたしたち留学生りゅうがくせいだけでなく、日本人にほんじんである学部生がくぶせいもボランティアとしててもらい、留学生りゅうがくせいたちとはなうのである。

1つひとつのテーマについてほかひと真面目まじめはない、かんがえをシェアするような授業じゅぎょうは、台湾たいわんではなかなか経験けいけんする機会きかいがなく、ましてやインターナショナルなディスカッションとなればなおさら貴重きちょう経験けいけんだった。

今回こんかいのディスカッションは月曜日げつようびから木曜日もくようびまで、全部ぜんぶ7名ななめい留学生りゅうがくせい発表はっぴょう順番じゅんばん担当たんとうした。テーマの範囲はんい制限せいげんされていないため、幅広はばひろかった。たとえば、韓国かんこくからの学生がくせいは「日本人にほんじん韓国人かんこくじんたいする印象いんしょうはどこから?」というテーマをげ、中国ちゅうごくからの学生がくせいは「ありのままの自分じぶんきか?」、「地球温暖化ちきゅうおんだんか」、「にほん本の児童虐待事件じどうぎゃくたいじけん」についての記事きじえらび、台湾たいわん学生がくせいは「台湾たいわん同性婚合法化どうせいこんごうほうか」や「各国かっこく地方文化産業ちほうぶんかさんぎょう」についてディスカッションした。

わたしえらんだのは「日本にほんのバイクの現状げんじょう」だった。日本にほんのバイクの現状げんじょうまこと台湾たいわんとだいぶちがうからである。

ディスカッションのながれとしては、まず、みんなに新聞しんぶん記事きじんでもらい、つぎ何故なぜその記事きじえらんだかを説明せつめいし、さらにいくつの質問しつもんして、みんなにかんがえてもらい、最後さいご自分じぶんかんがえをって議論ぎろんをまとめる。

普段ふだん自分じぶんからだれかにはなしかけるのはあまりきではないが、こうした他人たにん意見いけんおもうことを交流こうりゅうするのは意外いがい面白おもしろいとおもっている。なぜかというと、つぎからつぎへと質問しつもんをすることで、相手あいてかんがえていることやかんがかた徐々じょじょにわかってきて、そしてなぜそのようなかんがかたができたのかを分析ぶんせきしてみることがじつ新鮮しんせんだからである。

相手あいておもうことや相手あいて自分じぶん自身じしんのことをうまくすのは、おもったより興味深きょうみぶかいことである。

わたしがこうおもうようになるのも意外いがいなのだ。そこで、自己分析じこぶんせきをしてみた。(最近さいきんはますます自己分析じこぶんせき重要じゅうようだとおもってきた)

まず、わたしいと一緒いっしょにいるときは、いつも沈黙ちんもくこわい。そのうえ、自分じぶんったことについて相手あいてはどうおもうのかもになって仕方しかたないのだ。全然ぜんぜん面白おもしろくないのか、わたしはなして退屈たいくつなのか、じつ無理むりして返事へんじしてくれたのか……毎回毎回まいかいまいかい、このような思考しこうあたまなかめぐる。そのため、上手じょうず質問しつもんして相手あいてに返事してもらい、それにくわえて自分じぶんいたいことをきちんと整理せいりしてつたえる才能さいのうは、わたし無意識むいしき追求ついきゅうしているものかもしれない。そのほか、根掘ねほ葉掘はほりきく性格せいかく原因げんいん1つひとつだとおもう。

学部がくぶ授業じゅぎょうはとっていないので、学部がくぶにこのようなディスカッションクラスがあるのかあまりよくわからないが、いまのレベルの日本語にほんごクラスにはいって以来いらい文章表現ぶんしょうひょうげんでも、読解どっかいでも、ほとんどの授業じゅぎょう学生がくせい意見いけんわせる授業じゅぎょうである。わたしつねにどう表現ひょうげんすれば適切てきせつなやんでいるが、日本語能力にほんごのうりょくだけでなくかんがえるちからきたええることができるため、まことたのしんでいる。


ふたたあじわった言語げんご面白おもしろさ―あなだらけの言語げんご言語げんごかんの「補足関係ほそくかんけい」―

おな言語げんご」の場合ばあいでも「やくす」必要ひつようがあるのであろうか。

ある、バイトちゅうに、一緒いっしょ食事しょくじしている中国人ちゅうごくじんおんなとこのような会話かいわがあった。

怎麼都沒人吃菠蘿zĕn me dōu méi rén chī bō luó?(なんでだれも菠蘿(ポーロー)べないの?)」とおんないた。

菠蘿bō luó那是什麼nà shì shén me?(菠蘿(ポーロー)?なにそれ?)」

わたし困惑こんわくしていた。そうすると、おんなしんじられないとばかりにこえげた。

你不知道菠蘿nǐ bù zhī dào bō luó?(菠蘿(ポーロー)らないの?)」

不知道bù zhī dào。所以是什麼?(らない。で、菠蘿(ポーロー)は一体何いったいなんなの?)」

彼女かのじょおどろきの表情ひょうじょうたいして、わたし平然へいぜんとして質問しつもんかえした。

就是那個啊jiù shì nèi gè a那叫什麼nà jiào shén me……パイナップル。(あれだよあれ、かたなんだっけ……パイナップル。)」

おんなすこかんがえている間に、がついたのでつぎのようにこたえた。

原來在中國叫菠蘿嗎yuán lái zài zhōng guó jiào bō luó ma在台灣叫鳳梨zài tái wān jiào fèng lí。(中国ちゅうごくでは菠蘿(ポーロー)ってうの?台湾たいわんでは鳳梨(フォンリー)ってうんだよ。)」

彼女かのじょはあまりにも不思議ふしぎかおをしたので、わたしわらってしまいそうになった。

おなじ「中国語ちゅうごくご」が母語ぼごであるが、中国ちゅうごく台湾たいわん単語たんごやイントネーションなど様々さまざまちがいがあるということはずっとまえからっている。しかし、どうやら中国人ちゅうごくじん単語たんごおなじはずだとおもんでいるひとおおいようだ。(すくなくともわたしっている中国人ちゅうごくじんがほとんどそうである)

このような(すこ不愉快ふゆかいな)状況じょうきょうにはとっくにれているため、ここは一旦置いったんおいておく。

この対話たいわ記憶きおくふかいのは、おな言語げんごはな場合ばあいに、ほかの言語げんごで「翻訳ほんやく」するという状況じょうきょうを、じつ面白おもしろいとおもっているからである。たとえば、地域ちいきによってちがったりする英語えいごなどもていることがあるのではないか。相手あいてらない単語たんご使つかかたおな言語げんごですぐうまく説明せつめいできないときに、もしちょうどほかつうじる言葉ことばがあるのなら、その共通きょうつうする言葉ことばえるのもよくある選択肢せんたくしだとおもう。

 

それと同時どうじにもうひとあたまなかおもかぶのは、言語げんごかんにある補足関係ほそくかんけいである。

言葉ことばあなだらけだ」――多和田葉子たわだようこの《カタコトのうわごと》のなかにいてあるこの言葉ことば最近さいきん授業じゅぎょうった。普段ふだんれているため、こんなことにづくのがむずかしいかもしれないが、ほかの言語げんごまなぶと、容易たやす察知さっちできるとおもう。

いま世界せかいでは、母語ぼごほか第二だいに言語げんごまなばせるという趨勢すうせいがあり、2、3種類しゅるい、もしくはそれ以上いじょう言語げんごがわかるひと大勢おおぜいいるとかんがえられている。そのため、自他国じたこく言語げんごぜて使つかうこともよくあるではないか。たとえば、ふさわしい言葉ことばおもいつかないときに、べつ言語げんご単語たんご使つかって表現ひょうげんすることは、言語げんご学習者がくしゅうしゃにとってはめずらしくないとおもう。

このてんについてかえってみると、言語げんご環境かんきょうである台湾たいわんそだってきた自分じぶんはそのような経験けいけんおおい。とく台湾たいわん華語かごぜてはなすことがじつによくあり、「この場面ばめん台湾たいわん/華語かごでないと表現ひょうげんできない」とかんがえることもすくなくない。

 

こういったことにより、ちが言語げんごにはちが思想しそうかんがかたひそんでいることをふたたふかかんじさせられた。そのため、言語げんごまなぶことは、ただそれらを知識ちしきとしてれるだけでなく、様々さまざま言語げんごればるほど、よりおおくの見方みかた思想しそうがわかるようになり、自分じぶん視野しやかんがかたゆたかにすることもできると、みてかんじたのである。

 

最後さいご

日本にほんにいるあいだに、あたらしい経験けいけん様々さまざま体験たいけんがたくさんできた。

ここでまなんだことも、ここで出会であったひとたちも、ここでごした日々ひびも、台湾たいわんかえってもきっとわすれない。

すべてがたのしいおもい出だとはえないが、間違まちがいなく、すべてがかけがえのない記憶きおくである。

 

いつかまたおう。

 

わり)