留学生活の平凡な出来事 INUさん
留学生活の平凡な出来事 INUさん
日本に来てからもうすぐ一年になる。
桜の季節だったのがお正月を迎え、寮から学校までの道は桜色から翠に、そして黄金色から真紅に色を変え、また来たばかりのころの景色になりつつある。この1年間、自分の国とすごく違う生活を送ってきた。学校の授業にせよ、クラスメイトとの付き合い方にせよ、学生生活にせよ、平凡な日々さえも、台湾にいる時と殆ど違う。本当に、夢みたいな時間だった。私の生き方を少し変え、今までの、そしてこれか人生でとても大切な時期と言えるだろう。
1年はあっという間に過ぎていく。
この留学生活を記憶の中により深く刻むため、感想を書き、それをテーマごとに分類してみた。その中で一番気に入った3つ記憶をここで紹介したい。
「日本語上手ですね!」―日本語能力を褒められたのかな?
日本に来て以来、何度も日本人に「日本語上手ですね!」と言われたことがある。そのたび、いつも「そんなことないですよ。全然上手ではないと思います」と返事していたが、ある時、ふと疑問が頭の中に浮かび上がった。
なぜ、日本人はよく外国人の日本語能力を褒める言葉を口にするのだろう。
もっと適切に言えば、簡単な日常会話さえ聞き取れて話すことができれば、話す内容が間違いだらけであっても、「上手」という評価をもらえるのはどうしてだろう。
褒めてくれたことがある日本人といえば、日本語の先生か日本人学生とかバイトの同僚とか。
まず、日本語の先生は日本語教育が専門であり、日本語能力を評価する基準を持っている。日本語・日本文化教育センター、略して日文センターの先生たち、とりわけ上級クラスの先生たちは、我々留学生の文章やテストなどをきちんと見て、また、授業中で日本語を使って自分の考えを述べることができるかしっかり見てから、私たちの日本語能力を称賛するのである。つまり、先生たちは確実な根拠を踏まえた上で、留学生の日本語の聞く・書く・読む・話す能力を総合的に評価するため、褒めてくれたとしてもまだ納得できる。
では、日本語教育の先生以外の日本人はどうだろうか。
初見であるにもかかわらず、わずか何秒か何分間の短い会話を交わしただけで、「日本語上手ですね」と評価されることは珍しくない。しかし、自分の日本語のレベルはまだ上手という言葉に相応しくなく、特に話すことが本当に下手だと思っているので、頻繁にこのように言われると、相手が心からそう言ったのかとどうしても疑ってしまう。
そこで、立場を交換して考えてみた。もし華語が少しわかる外国人が目の前にいて、華語で自分と簡単な交流をしたら、どう思うのか。どのような返事をするのか。
自分の場合は、確かにすごいとは思うが、上手かどうかはやはり発音や流暢さ、文法の正確さ次第である。したがって、評価するときに使う言葉も「上手」に限らず、「いいね」、「うまい」など、いろいろと変わる。勿論、本人の前でネガティブなことを直接に言うことは避ける。それは多分、「上手」の判断する基準や「上手」の定義が人それぞれだからだと考えているが、面白いことは、今まで私が褒められたときに聞いた言葉のほとんどが「上手」だということである。
こういう場面で日本人が外国人に言った「上手」というのは、本当に上手の意を含んでいるのか。
私が自分の日本語が上手ではないと思っているのは、日本語で誰かと交流するときに、よく聞き取れなくてもう一度言ってもらうことや言い方がわからなくて詰まることがしばしばあって、日本語が下手だと感じることが何度もあるからである。これは、言語学習者という立場で自分の言語能力を自分の実際の表現で評価するということである。それに対して、ほめてくれる日本人たちは、日本人の立場で知ったばかりの外国人を評価するということである。つまり、立場も評価する基準もだいぶ異なると言えるだろう。
また、評価する「目的」も違うと考える。自分を評価したのは、言語能力を向上させるためや、自分のレベルを確認するためだと思うが、先生以外の日本人はそうではないだろう。だとしたら、日本人が「日本語上手ですね」を自然に外国人に言う「目的」は何なのだろうか。
私の考えでは、もしかすると、「相手への思いやり」ではないかと思っている。
日本人はコミュニケーションの時に「相槌」を大事にする上、相手の気持ちに気配りしたりもする。要するに、相手の気持ちを悪くさせないことが大切なのである。そのため、上手だとほめることも一種の思いやり―「上手」の基準を低くし、相手を褒めることを通じて会話を円滑に進める―と言えるかもしれない。(が、たぶん意識してそうするわけでもないと思う)
もちろん、日本人の「上手」をただの手段として捉えているわけではない。何せ、「上手」だと言われることが成立する前提には「簡単な会話ができる」という事実があるからである。
日本人に上手だと褒められるとき、自分の日本語が日本人に認められたと浮かれることはないが、どうしても気持ちも雰囲気も悪くならないのは確かである。そう考えると、日本人の相槌の打ち方には感心させられるものがあると思った。
台湾で経験したことのない授業―新聞ディスカッション―
今月、私がいる日本語クラスの授業で、新聞ディスカッションというのを行った。新聞ディスカッションとは、クラス全員がそれぞれ気になる新聞記事を選び、一人ずつ前に出て、約40分の発表をするものである。発表者は新聞記事の紹介をするだけではなく、ディスカッションの司会もしなければならない。そして、このディスカッションでは、私たち留学生だけでなく、日本人である学部生もボランティアとして出てもらい、留学生たちと話し合うのである。
1つのテーマについて他の人と真面目に話し合い、考えをシェアするような授業は、台湾ではなかなか経験する機会がなく、ましてやインターナショナルなディスカッションとなればなおさら貴重な経験だった。
今回のディスカッションは月曜日から木曜日まで、全部で7名の留学生が発表を順番に担当した。テーマの範囲は制限されていないため、幅広かった。例えば、韓国からの学生は「日本人の韓国人に対する印象はどこから?」というテーマを取り上げ、中国からの学生は「ありのままの自分は好きか?」、「地球温暖化」、「日本の児童虐待事件」についての記事を選び、台湾の学生は「台湾の同性婚合法化」や「各国の地方文化産業」についてディスカッションした。
私が選んだのは「日本のバイクの現状」だった。日本のバイクの現状は誠に台湾とだいぶ違うからである。
ディスカッションの流れとしては、まず、みんなに新聞記事を読んでもらい、次に何故その記事を選んだかを説明し、さらにいくつの質問を出して、みんなに考えてもらい、最後に自分の考えを言って議論をまとめる。
普段は自分から誰かに話しかけるのはあまり好きではないが、こうした他人と意見や思うことを交流するのは意外と面白いと思っている。なぜかというと、次から次へと質問をすることで、相手の考えていることや考え方が徐々にわかってきて、そしてなぜそのような考え方ができたのかを分析してみることが実に新鮮だからである。
相手の思うことや相手自分自身のことをうまく聞き出すのは、思ったより興味深いことである。
私がこう思うようになるのも意外なのだ。そこで、自己分析をしてみた。(最近はますます自己分析が重要だと思ってきた)
まず、私は知り合いと一緒にいるときは、いつも沈黙が怖い。そのうえ、自分の言ったことについて相手はどう思うのかも気になって仕方ないのだ。全然面白くないのか、私と話して退屈なのか、実は無理して返事してくれたのか……毎回毎回、このような思考が頭の中を駆け巡る。そのため、上手に質問して相手に返事してもらい、それに加えて自分の言いたいことをきちんと整理して伝える才能は、私が無意識に追求しているものかもしれない。そのほか、根掘り葉掘りきく性格も原因の1つだと思う。
学部の授業はとっていないので、学部にこのようなディスカッションクラスがあるのかあまりよくわからないが、今のレベルの日本語クラスに入って以来、文章表現でも、読解でも、ほとんどの授業が学生に意見を言わせる授業である。私は常にどう表現すれば適切か悩んでいるが、日本語能力だけでなく考える力も鍛えることができるため、誠に楽しんでいる。
再び味わった言語の面白さ―穴だらけの言語―言語間の「補足関係」―
「同じ言語」の場合でも「訳す」必要があるのであろうか。
ある日、バイト中に、一緒に食事している中国人の女の子とこのような会話があった。
「怎麼都沒人吃菠蘿?(なんで誰も菠蘿(ポーロー)食べないの?)」と女の子が聞いた。
「菠蘿?那是什麼?(菠蘿(ポーロー)?何それ?)」
私は困惑していた。そうすると、女の子が信じられないとばかりに声を上げた。
「你不知道菠蘿?(菠蘿(ポーロー)知らないの?)」
「不知道。所以是什麼?(知らない。で、菠蘿(ポーロー)は一体何なの?)」
彼女の驚きの表情に対して、私は平然として質問し返した。
「就是那個啊,那叫什麼……パイナップル。(あれだよあれ、言い方なんだっけ……パイナップル。)」
女の子が少し考えている間に、気がついたので次のように答えた。
「原來在中國叫菠蘿嗎?在台灣叫鳳梨。(中国では菠蘿(ポーロー)って言うの?台湾では鳳梨(フォンリー)って言うんだよ。)」
彼女はあまりにも不思議な顔をしたので、私は笑ってしまいそうになった。
同じ「中国語」が母語であるが、中国と台湾は単語やイントネーションなど様々な違いがあるということはずっと前から知っている。しかし、どうやら中国人は単語も同じはずだと思い込んでいる人が多いようだ。(少なくとも私の知っている中国人がほとんどそうである)
このような(少し不愉快な)状況にはとっくに慣れているため、ここは一旦置いておく。
この対話の記憶が深いのは、同じ言語で話す場合に、ほかの言語で「翻訳」するという状況を、実に面白いと思っているからである。例えば、地域によって違ったりする英語なども似ていることがあるのではないか。相手が知らない単語や使い方を同じ言語ですぐうまく説明できない時に、もしちょうど他に通じる言葉があるのなら、その共通する言葉で言い換えるのもよくある選択肢だと思う。
それと同時にもう1つ頭の中に思い浮かぶのは、多言語間にある補足関係である。
「言葉は穴だらけだ」――多和田葉子の《カタコトのうわごと》のなかに書いてあるこの言葉を最近の授業で知った。普段は慣れているため、こんなことに気づくのが難しいかもしれないが、ほかの言語を学ぶと、容易く察知できると思う。
今の世界では、母語の他に第二の言語を学ばせるという趨勢があり、2、3種類、もしくはそれ以上の言語がわかる人が大勢いると考えられている。そのため、自他国の言語を混ぜて使うこともよくあるではないか。例えば、ふさわしい言葉が思いつかないときに、別の言語の単語を使って表現することは、多言語学習者にとっては珍しくないと思う。
この点について振り返ってみると、多言語の環境である台湾で育ってきた自分はそのような経験が多い。特に台湾語と華語を混ぜて話すことが実によくあり、「この場面は台湾語/華語でないと表現できない」と考えることも少なくない。
こういったことにより、違う言語には違う思想と考え方が潜んでいることを再び深く感じさせられた。そのため、言語を学ぶことは、ただそれらを知識として受け入れるだけでなく、様々な言語を知れば知るほど、より多くの見方や思想がわかるようになり、自分の視野と考え方を豊かにすることもできると、身に染みて感じたのである。
最後に
日本にいる間に、新しい経験と様々な体験がたくさんできた。
ここで学んだことも、ここで出会った人たちも、ここで過ごした日々も、台湾に帰ってもきっと忘れない。
全てが楽しい思い出だとは言えないが、間違いなく、全てがかけがえのない記憶である。
いつかまた会おう。
(終わり)