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2021.02.02

コリア文学の中の京都:鄭芝溶・尹東柱を中心にーキム・チャンミンさん

コリア文学ぶんがくなか京都きょうとチョン芝溶ジヨンユンドンジュ中心ちゅうしんに-キム・チャンミンさん

 

日本にほん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせんから日本にほん留学りゅうがくした文人ぶんじんなかで、京都きょうと生活せいかつおくったのは、キムフアン同志社大予科どうししゃだいよか)、鄭芝溶チョンジヨン同志社大英文科どうししゃだいえいぶんか)、尹東柱ユンドンジュ同志社大英文科どうししゃだいえいぶんか)などがいます。そのうち鄭芝溶チョンジヨン尹東柱ユンドンジュ場合ばあい朝鮮半島ちょうせんはんとうのみならず日本にほんでもおおられている存在そんざいです。この二人ふたりはいずれも同志社大学どうししゃだいがくかよっていて、扶桑館ふそうかんとなりには鄭芝溶チョンジヨン詩碑しひっています。

これまでわたしはこの二人ふたりについて研究けんきゅうすすめてきましたが、その論文ろんぶん分量ぶんりょうが16000、18ページをえているため、ここでは研究けんきゅうのソースとなる二人ふたり作品さくひんだけをおも紹介しょうかいしたいとおもいます。

まず、鄭芝溶チョンジヨンからてみますと、かれは1923年5月3日に同志社大学どうししゃだいがく予科よか入学にゅうがく、1929年6月30日に卒業そつぎょうするまで約6年間やくろくねんかん京都きょうと在住ざいじゅうしていました。

かれ作品さくひん末尾まつび京都きょうと創作そうさくしたことをあきらかにしている作品さくひんわせて11へんありまして、そのほかにも京都きょうといたとおもわれる作品さくひん複数存在ふくすうそんざいしております。

これはかれ代表作だいひょうさくで、同志社大学どうししゃだいがくてられたかれ詩碑しひにもきざまれている鴨川かもがわ」の全文ぜんぶんです。

かれ散文さんぶん鴨川上流かもがわじょうりゅう」などで、鴨川かもがわみずから3等分し、かみがも、なかがも、しもがもとけました。京都きょうと上賀茂神社かみがもじんじゃ下鴨神社しもがもじんじゃなどがありますが、ここではそれらと関係かんけいなく、鴨川かもがわ上流じょうりゅう下流かりゅうといった概念がいねん理解りかいしていただきたいとおもいます。

つぎてくるこの、「はしうえ」は都心地帯としんちたい鴨川かもがわ下流かりゅうから市電しでんって下宿げしゅくのある府立植物園ふりつしょくぶつえん周辺しゅうへんかえってきて、市電しでん終点しゅうてんから当時とうじ中賀茂橋なかがもばしひがしわたりながらいただとおもわれます。

はなやかなよるまちからして、下宿げしゅくのある中鴨なかがももどってきたときの安心感あんしんかんつたわってきます。

かれ同志社どうししゃにて日本人にほんじん同人どうじんたちとも交流こうりゅうをしました。この交流こうりゅううれしいことありたのしいことでもありましたが、一方いっぽうでは亡国ぼうこくたみとしての自我じがさびしさを痛感つうかんさせるきっかけでもありました。散文さんぶん日本にほん蒲團ふとんおもい」には、かれかんじたそういうかなしさがにじみています。

京都きょうとで書いたかれ作品さくひん根幹こんかんにはこういう憂鬱ゆううつさとなやみが根付ねづいています。かれみづから「憂鬱ゆううつ散歩者さんぽしゃ」と表現ひょうげんしたこの意識いしきは、京都きょうと時代じだいかれ作品さくひんるキーワードとしてはたらいています。そして、「日本にほん布団ふとんおもさ」をせつかんじつつ、「朝鮮風ちょうせんふうはな」をかせねばと決心けっしんするのでありました。

つぎに、尹東柱ユンドンジュです。尹東柱ユンドンジュは、かれ人生じんせい最後さいご3年さんねん(1942.3-1945.2)を日本にほんおくりました。かれは1942年3月に立教大学りっきょうだいがく入学後にゅうがくご、10月に同志社大学どうししゃだいがく編入へんにゅうします。日本にほん留学りゅうがくさいは、留学りゅうがくのために必要ひつよう渡航証明書とこうしょうめいしょ発行はっこうしようとしました。しかし、この渡航証明書とこうしょうめいしょは、名前なまえ日本にほんめいえていないと、もらえないものでした。そのため、かれ創氏改名そうしかいめいをするのですが、その創氏改名そうしかいめい5日前いつかまえに、名前なまえ日本式にほんしきえることへの気持きもちをめて、「懺悔録ざんげろく」といういています。

 

かれ日本にほんにいるあいだたくさんの日記にっきのこしましたが、ハングルでいたかれ行動こうどうは、1939年早稲田大学わせだだいがく朝鮮人留学生ちょうせんじんりゅうがくせいによる「朝鮮文化向上運動ちょうせんぶんかこうじょううんどう」、朝鮮語ちょうせんご辞書じしょつくろうとして治安維持法違反ちあんいじほういはんで33人が逮捕たいほ2人ふたり拷問死ごうもんしした「朝鮮語学会事件ちょうせんごがっかいじけん」に民族意識高揚行為みんぞくいしきこうようこういであると特別高等警察とくべつこうとうけいさつによってみなされました。

1943年7月に治安維持法違反ちあんいじほういはん逮捕たいほされ、福岡刑務所ふくおかけいむしょおくられます。逮捕時たいほじかれ原稿げんこうすべ没収ぼっしゅうされ、京都きょうと時代じだい作品さくひんは「たやすくかれた以外いがいなにのこっていません。

「たやすくかれた」は、1942年6月に自身じしん下宿げしゅく六畳間ろくじょうませま部屋へやからいたで、のこされている最後さいごのものです。かれ灯火ともしびをともして やみすこいやり、あたらしい時代じだいあさるのをつづけましたが、結局けっきょく、その朝日あさひることなく、福岡刑務所ふくおかけいむしょないかえらぬひととなりました。

かれ詩集ししゅうは、かれ死亡しぼうから3年後さんねんごの1948年に発刊はっかんされました。

ここまで、コリア文学ぶんがく京都きょうとのかかわりについて紹介しょうかいしました。

現在げんざいは、尹東柱ユンドンジュ京都きょうと時代じだいについてのこされている同志社大学英文科どうししゃだいがくえいぶんか同級生どうきゅうせい証言しょうげん裁判さいばん記録きろくなどをさぐりながらかれ京都きょうと時代じだい片鱗へんりんさがしています。

みいただきありがとうございました。

 

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