日本社会を生きる人々との対話へ
張さんーどっちでもありたいっていうのは欲張りな感じがします。
張さん―どっちでもありたいっていうのは欲張りな感じがします。
―生まれたのは台湾です。台湾で生まれて、でも飛行機になれる年の3か月のときにはもう日本に。
張さんは、日本の社会、日本の文化の中で育ち、今日本の大学に通っています。
―京都市内で本当に昔から町内会とかあるところに住んで。だから、京都ならではの地蔵盆とか、町内の区民運動会とか、そういうのがずっとあるところで育ちました。お寺の中の保育園で育ったので、もしかしたら日本の子よりも日本の行事とか文化とかそういうのはすごい敏感かも。
私は普通に生きてると台湾人ってあんまりばれません。
―隠してるわけじゃないんですけど。勘がいい方は名前で、あ、張さんっていうことはってなります。でも、中国人?って聞かれるときに、台湾やねんっていうのは軽く言いますね。嫌な気持ちってわけじゃなくて、ちょっと違うんだよっていう気持ちがあります。
日本に来ることになったことの発端はお父さんなんですよね。
―お父さんが日本がすごい好きで、日本の文化が好き、お寺とかが好きっていう学生やって、お父さんが日本に興味あると、日本に行きたいなっていうのを台湾の親戚とかお友達に相談したところ、ちょうど日本に知り合いがいるから、その人にお世話になったら日本に行けるよっていうので、そのおばあちゃんと知り合って。3か月間をお寺で過ごしてはって、台湾に帰る気をなくしたみたいで、もう僕、日本に住むつもりやねんけどっていうので、お母さんも、わかった、じゃあ日本に行くよっていうことで。
お父さんは知らないうちに日本に興味を持っていたみたい。
―台湾で暮らしてると日本の文化に近いというか、おじいちゃんがすごく日本の演歌が好きで、演歌が日常にある中で育ったから、知らないうちに日本に興味があったって言ってました。
日本に住むって決まったときは大学に留学生として入るっていうことにしはって、結局その大学に9年間、博士まで。
―ママは日本に来る前は台湾でも普通にお仕事してて、音楽の先生っていうのをやってはったんですけども、もうそれを辞めて日本にきて。ママも大人になってから日本に来て、京都の日本語学校にも2人で通って。
町内会が残ってるようなところに引っ越してきたから、わっ、外国人が来たみたいな感じで見られてたみたいです。
―ただ、だからといってママたちの態度は変わらないわけで、普通にご近所さんとして人一倍挨拶はしてたみたいで、会ったら絶対こんにちはって言うようにしてて、片言でも引っ込み思案にはならなかったみたいで。だから徐々に仲良くなって、今では町内の方を連れて台湾に旅行に行くぐらいに。
今は両親は中国語の先生をやってます。
―学校以外にも個人経営でもやってまして、家に教室が1個、部屋ですけどね。
教室を始めたころは近所のおじいちゃん、おばあちゃんに心配されてたみたい。
―生徒さんの出入りがすごくあるんですよね、うちに。そうなると、近所のおじいちゃん、おばあちゃんって見てはるんですよ、家に出入りする人とか。それこそ、共働きになるので、私と妹だけが家にいる時間とか、お父さんとお母さんが帰ってきはったなっていうのをすごい全部見てはって、だから遠回しに言われるというか、最近妹さんと2人で家にいる時間多いみたいやけど大丈夫?とか、おかず持ってきはって。心配プラス、なんでこの家はこのスタイルなん?みたいなんが一時期あったというか肌で感じるというか。だから、その対策として、家の前におっきい看板作らはったんですよ、中国語教室っていうのを。
私のお母さんは中高のとき人気者でした。
―私、小中高と全部今の家の付近なので、みんなママちゃんに会いに行く、私のママ、ママちゃんって呼ばれてるんですけど、中高とみんなに人気でした。ここで台湾のお茶一緒に飲んでいきとか、けっこうみんなも台湾のお家に来てるっていう感覚で来てるからこそ、楽しんで興味を持って接してくれる子が多いので。なので、いじめられたりとかっていうのは私も妹もまったくないですね。
小中高と私の担任をしてきてくださった先生はみんないい人で、もう本当にいい人というか、なんやろう、うん、いい人でした。
―私今までの全部のクラスで学級委員長をやってるんですよ。それを受け入れてくれるクラスもそうですし、先生も。たぶん私も積極的な性格っていうのはわかってるので、最初1年生のときに、じゃあ学級委員長決めようってなったとき、誰も手を挙げないじゃないですか。じゃあ、やりますみたいな感じでやり始めてたのが、もうほんまに全部やってます、学級委員長。
子どもの頃は、夏休み絶対台湾のおばあちゃんちに帰って3か月ぐらいいるっていうのが、家の行事でした。
―小学校の時はすごいそれが嫌で、夏休みにしかない行事とか、それこそプールとか合宿とかそういうのに参加したいのに台湾に帰らなあかん。一人で置いていかれて、で、両親は帰らなはって、パパ、ママ毎日起きたらいいひんから、おばあちゃんにママは?って聞いたら、いや、明日帰ってくるよっていうのが3か月みたいな。
そんな中で育ってきたので、私は中国語と日本語と、あと台湾語も話せますが、日本語がいちばん話しやすいです。
―おばあちゃんが言うには、私が日本語しかしゃべれなかったみたいで、中国語の文法も日本語の文法でしゃべってて、でも3か月たてば、ちゃんと中国語になって、で、また日本に帰って、次の年帰ってきたら、また日本語しかしべれへんみたいな。台湾語は、おじいちゃん、おばあちゃんはやっぱり台湾語が一番しゃべりやすいから、聞いてるうちに理解はできるようになって。
こんな感じで置いてきぼりにされているうちに中国語と台湾語が身につきました。
―家ではパパとママはもちろん中国語が一番しゃべりやすいんで中国語でしゃべってて、でも日本語も時々交じってっていうので。でも、中国語でしゃべりかけられても絶対に日本語で返しちゃうんですよ。単に日本語で返すほうが楽やし、もちろん日本語で返すけど向こうから返ってくるのは中国語です。
お互い楽な言語でしゃべってる感じはしますね。
―でも怒られてるときは、日本語で怒られ始めて中国語になって、最後台湾語になるので、怒られてるうちに、あ、やばい、中国語になった、あ、やばい、台湾語になったっていう。
ただ、妹は台湾語が全くわからないって言ってて。
―おじいちゃんとおばあちゃんと暮らしているとき、妹からすると私がいるので、日本語でしゃべる機会があるんですけど、私がちっちゃいときは妹がまだいなくて日本語しゃべる相手がいなかったので、気合いの入れ方が違うというか。妹の中国語はそれこそ日本の子がしゃべってる中国語っていう感じがします。
大学に入ってから台湾に留学に行っていろいろ気がついたことがありました。
―去年台湾留学行ってよかったのは、私は日本人なんやなっていうのは逆に思って。いざ行ってみると、台湾の同級生というか、みんなからしたら日本語もしゃべれる台湾人っていうので、すごい友達もできましたし、すごいたくさん興味も持ってくださって。
ずっと日本にいるから、刻まれてる何かがあるんでしょうかね。
―この留学が終わって、また台湾に帰ってきて住みたいかっていうとそうではなくて、やっぱり日本で住んでて旅行で台湾に帰るとか、台湾の友達に年に1回会いに行くっていうスタイルのほうが。お父さん、お母さんは私と妹が手を離れたら、2人は台湾に戻って過ごしたいというのは言ってはります。でも私は日本に帰る、日本に遊びに行くじゃなくて、日本に住んでて台湾に帰るっていうのが向いてる過ごし方なのかなって思ってます。
自分は台湾人ではあるんやけども、なりきれていないない台湾人なんやって思いました。
―留学してたとき、向こうの友だちが私は台湾人やのに日本人みたいやし、でも、しゃべってる言葉選びとか、すごい台湾人がしゃべる中国語でしゃべってるよねっていうのは言ってくれてたので、私は台湾人になりきれていない台湾人かな。日本人ではないよっていうのはすごい言ってくれてたので、自信にはなった。
大学で言語系の授業とか受けるにつれて、確かに違う自分っていうか、いるなっていうのは気づき始めてます。
―中国語で話してるときの自分って、すごい気を遣わない、無防備、いい意味でも悪い意味でも、中国語ってすごいストレートに話せる言語っていう感じがして、だからそれが裏目に出ることとかもあるかもって。
そういえば、バイトのときは日本語上手な台湾人と中国語上手な日本人になってます。
―バイトしてるとき、名札に張って書いてるんですよ。なので台湾のお客さんが来はったらもちろん台湾語で接客しますし、台湾語のときは、へえ、お姉さん台湾人?って聞かれたらそうですよみたいな。日本の方が来られたときに、あ、お姉ちゃん日本語上手やんって言われたら、あ、はい、みたいな。日本語上手やんの方もいれば、中国語上手やんっていう方もいらっしゃって、お姉ちゃん中国語上手やんっていうときは、あ、台湾人なんですとは言わずに、あ、はい、ありがとうございますみたいな感じで。中国語上手な日本人っていう設定でやってます。
私、日本人なんですって言うことはあるかな。
―友達と話してて、私が台湾人ってわかってるときとかに、張さんは日本人じゃないしわからんよなみたいな流れになったとき、いや、そうでもないけどなって。何か日本人じゃないんやけども、日本で育ってるしその感覚があるから、わからんくはないよっていうふうになるときは日本人とおんなじだよって。
だから、本当に欲張りな感じがします、自分が。どっちでもありたいっていうのは。
―昔は私は何人でもないしっていう感じやったんですけど、今は話す相手によってどっちでもあるから。今は台湾人にも日本人にもどっちにもなれるっていうのがやっと自信もって言えるようになりました。
でも、やっぱりどっちの国も好きやからこそですよ。
―だから、行き来する人たちのお手伝いができたらなとか、もちろん日本に住んでて、日本に住んでる台湾、中国の子で悩んでることがあったら、何か元気にしてあげたいなっていう気持ちがいっぱいあります。
(終わり)